開戸日記

カクコト・イイコト

悪意と無知は平等か?

最近ツイッターで話題の話。
どうやらとある方が、トイレは池と繋がっていると小学生以下の勘違いを引き起こしてしまい、池へ逃がす気持ちで「金魚」をトイレへ流す行動を起こしてしまいました。

しかも動画でそれを投稿。
当然ながら非難バッシングの嵐。動物愛護の精神の無い行動にツイッターは荒れます。

動画を投稿した方は、別に金魚を殺したつもりではなく、本当に動物が好きで、それでも飼えなくて仕方なく逃した気持ちのようです。

おそらく悪意はなかったのでしょう。
ただちょっと知恵がなかったため。もし裁判にかけられたら情状酌量の余地あり、と判決が下されそう。


さて、ここで気になるのは無知であることは許されるのか?という事です。

確かに知らなくて失敗することは誰にでもあります。僕も失敗します。それも知らなくてです。しかし、もしそれが命に関わることだったら?

もし、この金魚をトイレに流した動画投稿者が、金魚ではなく人間を殺した場合。本当は救うつもりだったけど結果的に殺してしまった場合。なんか宗教とかにありそう。

というより社会で多そうなイメージ。その場合、彼らの罪はどうなるのでしょうか?悪意を持つ行いと同じなのでしょうか?

違うと言えば、違うかも。
「こうすると殺すことになる」と知っている。
また「こうすると殺すことになる」と知っていて計画的に行う。

どっちも知っていて、一方は確実に殺すイメージ。この場合だと「殺す知恵」を持っていたかどうかが軸。

なんだか訳わかんなくなってきた。
つまり知恵の差。

たぶん罪だと「殺す知恵」がある方が重くなり、知恵のない方は罪が軽くなる。そりゃそうだ。一方は死ぬと分かっていることをやっているのだから。もう一方は分からなかった。むしろ同情が寄せられるかも。


しかし「五十歩百歩」という言葉がある。

要は結果的に『殺した』ことに変わりはないということ。知らないから、知っていたからではなく、神の目の前では「死」は変わらない。


たとえ、そこに悪意があろうとも。
知らない、無知であったとしても事実は変わらない。現実は非情ですね。

なんだろう?
「行動」が焦点なのかな?それとも「思考」?「殺す知恵」を思考して、実際に「殺す」行動をする。思考=行動が合致していたらアウト。

そして
「救う知恵」を思考して「殺す」行動になる。思考≠行動ならセーフ?ということは無知と悪意は平等ではない?


でも周りから見たら許せないし、事実は変わらない。最近は知識が足りないことを訴求される風潮もあるかも。ムズイ。

でも若干違うのかな?組み立て方を見ていくと。ただ事実だけ見れば変わらない。どっちも同じ。あれか、中身は違くても「事実」は同じ。なるほど。人間って難しい。

哲学的になったかな?もう少し簡単にするつもりだったけど。頭こんがらがってきたので以上。

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